木曽路は本当に、山の中だった。馬籠宿より中山道をひたすら歩く3時間の旅

2016.11.13

馬籠宿と妻籠宿を結ぶ8.4kmの中山道。幕末には皇女・和宮(かずのみや)がこの道を籠に揺られて江戸に上り、馬籠で生まれ育った島崎藤村も、同じ道を通って東京へと向かった。そして現在このルートは、世界中の旅人が目指すハイキングルートとなっている。歩く以外の代替手段なし、リアルな江戸の旅を体験してみよう。

出発の地、
坂の宿場町・馬籠は雨の中だった

この旅は、馬籠宿(岐阜県中津川市)より始まる。文豪・島崎藤村は馬籠宿本陣の末裔で、幕末から明治初期までの動乱期を描いた彼の代表作「夜明け前」は、この宿場町が舞台となっている。
取材に訪れた日は前夜からの激しい雨が残り、馬籠宿は雨に煙っていた。「木曽路はすべて山の中である」と藤村が記したように、中山道はそのほとんどの区間が山間。従って宿場町も四方は山ばかり、ということが多い。その中にあっても、馬籠宿が立地する地理的条件というのは、かなり異彩を放っている。

山の尾根伝いに開かれたため、馬籠宿には平坦な道というものがない。険しい坂道が延々600m、所によっては爪先に思わず力が入るような急勾配もある。その坂道を、叩きつけるような雨が流れ下っていた。
中山道が五街道の一つとして整備され始めたのは、江戸幕府開府から間もない慶長6(1601)年のこと。人荷が行き交うという以上に、軍勢を進めるルートという意味合いも濃かったことから、宿場町もまた軍事的要害としての意図をもって設計された。

そのことが良く伝わるのが、上写真の「桝形」という地形。敵の軍勢が一気に攻め込まないよう道を直角に2度曲げ、行く手を阻む役割を果たした。
その中山道であるが、総延長は約530km。日本橋から京都までを69の宿場町が結んでいる。
江戸から京都へと向かうもうひとつの街道・東海道は約492kmで、距離的にはこちらの方が近回りなのだが、東海道には大井川の川止めや、宮-桑名間の船旅による海難リスクなど、数字には表れない危険が多く待ち構えていた。

その点、中山道は山は険しいものの難所は少なく、幕府の取り締まりも東海道ほど厳しくはない。「急がば回れ」ではないが、参勤交代のルートに中山道を選ぶ大名家も多く、尾張徳川家のほか西国大名34家が利用していた。
前述の通り、東海道よりも難所が少ないことから、特に女性の旅では中山道が選ばれることが多かった。大名家の姫ともなれば、きっとルートは中山道。徳川将軍の夫人となるために江戸に向かう皇族や摂家の女性たちも、そのほとんどが中山道を通っている。

このため「姫街道」という実に優しい響きの別名を持っているのだが、今回歩く馬籠-妻籠間の道をそのまま受け取ってはならない。現在「中山道自然歩道」として、随所に歩きやすいよう手が施されてはいるが、歩くよりほかに通う手段のない山道である。馬籠宿を訪れたその場の勢いで、歩き始めるのはお勧めしない。最低限、履物はスニーカーを準備して、今日は歩くぞ!の気概とともに馬籠を訪れてほしい。
さて、山歩きの拠点となるのが馬籠宿の観光案内所だ。出発の前に必須で入手すべきなのが、ルートマップ。大まかな高低差イメージのほか、見どころとなる場所も紹介されている。地元ならではの情報も、スタッフさんに伺ってみると良いだろう。

またこちらでは、手荷物運搬サービスを受けることもできる。スタート地点・馬籠で8:30~11:30に預け入れれば、 13:00以降にゴールとなる妻籠の観光案内所で受け取ることができる(手荷物ひとつにつき税込500円)。

8.4kmを歩き通すこと自体、それで十分思い出深い「コト」ではあるものの、何か記念となる「モノ」もほしい。そんな気持ちに応えてくれるのが「完歩証明書」。スタート地点・馬籠宿と、ゴール地点・妻籠宿観光案内所の両方でスタンプを捺印してもらえば、歩き通したことの証明となる。
ヒノキの薄木からつくられた証明書は保管に便利なハガキサイズで、日本語版のほか英語版も準備されている。しかし、海外からの旅行者も日本語版を希望することが多いそうだ。
もうひとつ、大切なのが熊よけの鈴。熊が人里で目撃されたというニュースは滅多に聞かれないものの、これから向かうのは人間ではなく、むしろ動物たちの領域。無用な遭遇を避けるためにも、熊鈴はぜひ身に付けてほしい。
熊鈴の持ち合わせがない、という方もご安心を。観光案内所ではちゃんと貸し出して下さる(保証料金1個1,200円は、返却時に返金)。

雨、上がる。しかし、
スタートから5分で、はや息切れ

ちりんちりんと熊鈴を得意げに鳴らしながら、いざ中山道の旅へと出発である。片側1車線の県道を超えれば、そこはもう宿場の外。そしていきなり、行程の険しさを予見させる急勾配の坂に出くわす。
スタートから5分と経たずして、すでに激しく息切れ。運動から遠ざかっていた体に、中山道は容赦がない。
ぜいぜい言いながら、まず立ち寄るのは「馬籠宿 展望台」。ここは正面から恵那山を望むことのできる場所で、木立の間から宿場の坂道と、その先にある田園風景まで見渡すことができる。

最強の晴れ女であるカメラマンさんのパワーで、歩き始めてほどなく雨はあがったものの、空にはまだ雲が低く垂れこめている。このため恵那山の頂きは雲に隠れているが、水気を含んだ山の緑は眼に痛いくらい美しい。
「木曽路はすべて山の中」と記した藤村も、同じ「夜明け前」の中でこう書いている。
山の中とは言いながら、広い空は恵那山の麓の方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。何となく西の空気も通ってくるようなところだ。
9歳まで、この地で暮らした藤村少年。もしかしたらこの場所で、遠い空を見上げていたのかもしれない。
地図によると、馬籠宿を出てから馬籠峠までの2.2kmは、ひたすら上りのように見える。しかし歩いてみると、道は蛇行しながらの上り下り。峠を上っていると言う実感はあまりない。
しかし、道は次第に山の中へと入る。いよいよ、「すべて山の中」の世界である。
山に入ると、要所要所に設置されているのがこちらの「熊ベル」。昨夜来の雨で瀬の流れは激しく、ややもすればかき消されがちな熊鈴と異なり、こちらはカンカンとよく響く。見かけたらぜひ、あなたも威勢よく鳴らしてみよう。
峠越え、と聞くといかにも苦しげな響きがあるが、実際そうである。江戸時代そのままの中山道は傾斜が厳しい上に、ヘアピンカーブも出現する。さらに、思った以上に道幅が狭い。

前述の通り、この道は大名の参勤交代に用いられた。時代劇でよく見る、「下にィ~、下に」の大名行列である。しかし道幅は馬が二頭、轡(くつわ)を並べて進めるかどうか。行列が通り過ぎるまでの間、路肩に平伏して見送ろうものなら、うっかり崖を転げ落ちそうな場所もある。実は大名行列、横幅はあまりなく、縦に長いものだったのかもしれない。

「夜明け前」によると、江戸へ降嫁する和宮の行列が馬籠宿へと差し掛かったのは九つ半時、つまり午後1時ごろのこと。「その日の夜に入るまで駅路に人の動きも絶えることもなかった」とあるが、この時代の「夜」とはおおむね午後6時以降を指すから、延々5時間、行列は続いたことになろうか。
いずれにせよ、難儀なことである。
中山道と県道は絡み合うように、時に重なりながら走っている。このため、ルート上には時折、車道を横断する場所もあるし、車道を歩く場所もある。現代の道路とはいえ、このあたりを走る県道7号線は車にとってもハードな峠道。見通しの効かないカーブも続くため、車道を横断・通行する際は、安全に十分気をつけてほしい。
歩けども歩けども、木曽路はいまだ山の中。馬籠峠の頂上にはなかなか辿り着かない。と思っていたら、忽然と集落が現われる。「峠の集落」と呼ばれる場所だ。
宝暦12(1762)年に、集落のほとんどが焼失する大火に見舞われたが、それ以降火事の記録はない。このため、現在も残る住宅の一部は江戸時代中期以降の佇まいを残している。
中でも「今井家住宅」は国の登録文化財。現住宅の建築年代は明治前期だが、今井家は江戸時代「牛方(民間の輸送機関)組頭」を務めた家柄で、「夜明け前」の中にも登場する。
今は、無人となった家屋の方がやや多いかもしれない。しかし、人の暮らす家の軒先には花が飾られ、心づくしの清水が旅人を迎えてくれる。
峠の集落を過ぎ、ふたたび山中を歩けば、ようやく馬籠峠の頂上にたどり着く。標高は801m、馬籠宿との高低差は200mほどだが、それよりもっと上ったと足の疲労が訴えている。
旅人にとってもこの峠越えは紛れもなくひとつの難関で、登り切った時の清々しさ・達成感は我々と変わらなかっただろう。
▲ちなみに現在、馬籠峠は岐阜と長野の県境。歩道脇の擁壁に、境を記した標識を発見

峠を越えてもなお、道は険しい
けれどその先には、絶景があった

馬籠峠を越せば後はひたすら下り、とは行かないのが中山道。長野県側に入っても、道はアップダウンを繰り返す。
見た目には静かな中山道であるが、江戸時代には飛脚が駆け抜ける情報の道でもあった。

さすがに飛脚たちは、託された書状の中身を明かすようなことはなかったが、彼らもまた市井の人間である。見聞きした情報を、途中の宿場町の人々に語って聞かせることもあっただろう。

「夜明け前」の中で藤村は、「この街道に伝わる噂の多くは、諺にもあるように転がるたびに大きな塊になる雪達磨に似ている」と書き、その例としてペリー来航を挙げ「六月十日の晩に、彦根の早飛脚が残して行った噂もそれで、十四日には黒船八十六隻もの信じがたいような大きな話になって伝わってきた」と続けている(実際は4隻)。
江戸時代はペリー来航に慄いた馬籠宿だが、現在は海外からの旅行者で賑わっている。中山道をたどるコースを楽しむ人々も多く、我々が歩いた日もすれ違うのは皆、海外からの旅行者であった。
元々、トレッキングなど自然を楽しむ文化は海外で長く育まれてきたものであるが、本家本元の彼らをしても、馬籠-妻籠間の中山道ルートは感動を覚えるそうだ。

観光案内所の方に伺ったところ、深いヒノキの木立に囲まれた細道を歩くこのコースは、海外ではなかなか巡り合えない光景なのだとか。また、森林浴を兼ねてのハイキングができることも人気の理由らしい。
山を抜けた先、開けた場所にあるのが「一石栃の白木改番所跡(いちこくとちの しらきあらためばんしょあと)」。
翻訳すると、木曽から運搬される材木(白木)を取り締まるため設けられた番所で、「一石栃(いちこくとち)」という場所にあるため、一続きに書くとこういう難解な名称になる。

現在ここは無料の休憩所で、お茶の振る舞いを受けることもできる。また運が良ければ、木曽節を聞かせてくれるボランティアのおじさんに、出会えるかもしれない

「一石栃の白木改番所跡」の前には、枝垂れ桜の巨木がある。春には、それは見事な花を咲かせ旅人を楽しませてくれるそうだ。
残念ながら今は秋、葉の落ちかかった枝を見上げるしかなかったが、その枝ぶりからも十分、花の美しさは想像された。
観光案内所の方から、見るべきポイントとして教えていただいた最後のスポットが、「男滝・女滝(おたき・めたき)」。この滝は、木曽の山中を人が通うようになって以来、旅人に名所として親しまれてきた。
まず現れるのは、豪壮な「男滝」。前夜の雨もあってか、風圧を感じるほど轟々と流れ落ちる姿は、なるほど勇壮な「男の滝」である。
さらに右手奥に進んだ先に、「女滝」はあった。陽の光を浴びる頂から流れ下る滝の姿は神々しく、またどこか艶めかしくもある。一つ所にここまで対照的な「男滝・女滝」が形成されたというのも、見事な天の采配なのだろう。
「男滝・女滝」まで来たら、妻籠までは3.6km。これまで歩いた距離より、これから歩く距離の方が短くなると、旅の終わりを少しずつ実感し始める。
大妻籠を過ぎたあたりからは、山中より里の中を歩くことも増え始め、妻籠の手前ではついに中山道はあぜ道と同化する。
そしてようやく、妻籠到着。なんということはない駐車場の看板なのだが、「妻籠宿」の文字に思わず抱きつきたくなる。しかし案外、ここからゴールである妻籠の観光案内所までは距離がある…。
ついに、本当のゴールである。観光案内所で完歩証明書に印鑑を押していただき、馬籠-妻籠間を歩く8.4km、約3時間の歩く旅もついに終わった。

現代を生きる私は、宿場ひとつ分・8.4kmを歩いただけでもう、達成感がいっぱい。しかし江戸の旅人たちにとってこの区間は、さらに続く旅の道程にすぎない。馬籠宿を朝、出発したなら、その日のゴールは妻籠宿ではなく、さらにひとつ先の宿場くらいまでは歩いたことだろう。

江戸の人々が知ったら鼻で笑われそうだが、根性も体力も尽き果て馬籠への復路はタクシーに乗車する。
帰りの車中、峠道に揺られながら今回の旅と、島崎藤村という人を思い返していた。

藤村は9歳で馬籠を離れ、姉夫婦が暮らす東京の家に身を寄せる。以来、大学も最初の勤め先も東京。後に数年間を仙台で過ごし、27歳の時には長野県小諸町で職を得て定住したが、6年後には再び東京に戻っている。昭和18(1943)年、神奈川県大磯で亡くなるまでの生涯、家族の用事で馬籠を訪れることはあったが、ついに戻ることはなかった。
しかし、藤村は心の一部を馬籠に残していたのだろう。52歳の時、人手に渡っていた馬籠本陣跡の宅地を購入している。いつか、帰るつもりだったのかもしれない。

藤村が馬籠を発った明治14(1881)年はまだ、東京への旅には中山道が用いられている。今日、私が歩いた同じ道を、藤村も歩いた。
タクシーでの所要時間は約20分、料金にして3,000円ほどで馬籠に帰着した。同じ道をたどって、きっと藤村も馬籠に帰りたかったのだ。
船坂文子

船坂文子

農家・ライター。本籍地は生まれた時から飛騨。情報誌出版社にて15年間、人材・旅行領域の広告・編集記事作成に従事。若い頃から「田舎に帰って百姓になる」が口癖で、退職後は農業大学校での研修を経て就農。一畝の畑を耕し野菜を販売する傍ら、ライターとしても活動。「人」を通して物事を伝えることを心がけている。

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