世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に選定された山口県萩市のスポットを巡る

2016.05.04

2015年7月、「明治日本の産業革命遺産」がユネスコ世界文化遺産に登録されました。8県11市にわたる23の構成資産の中でも、近代化の原点と言われているのが山口県萩市内にある5資産です。2016年1月30日には、これらの資産をよりわかりやすく学べる「萩・世界遺産ビジターセンター 学び舎(まなびーや)」もオープン。萩市文化財保護課世界文化遺産室室長の阿武(あんの)宏さんに、萩市内の構成資産について、見どころなどをお聞きしました。

近代化への試行錯誤の痕跡を示す貴重な資産「萩反射炉」

今回、現地を案内してくださった阿武さんは、萩市が世界遺産登録をめざして本格的に取り組みを始めた2006年以降、市の担当者として尽力された方。登録決定の際は、「第39回 ユネスコ世界遺産委員会」が開催されていたドイツのボンで、その瞬間に立ち会われたそうです。
最初に訪れたのは、海防の危機意識を抱いた萩(長州)藩が、洋式の鉄製大砲鋳造をめざし、安政3(1856)年に建造した「萩反射炉(はぎはんしゃろ)」です。

萩(長州)藩は、既に反射炉の操業に成功していた佐賀藩に藩士らを派遣し、洋式鉄製大砲の造り方を教わろうとしたものの、断られてしまいます。そこで、萩(長州)藩は、佐賀藩が欲していた萩(長州)藩が発明した「砲架施風台(ほうかせんぷうだい)」の模型を大工棟梁で藩士の小沢忠右衛門に持たせ、再び佐賀藩に派遣。小沢忠右衛門は反射炉の見学を許され、スケッチをとり、藩に持ち帰ります。このスケッチをもとに、「萩反射炉」は造られたと考えられています。

現在残っている遺構は、煙突にあたる部分で、高さ10.5mの安山岩積み(上方一部煉瓦積み)です。オランダの原書によれば、反射炉の高さは16mですので、萩反射炉は7割程度の規模しかありません。また、萩(長州)藩の古文書には、『安政3年に反射炉の雛形を築いて大砲などの鋳造を試みたが、本式に反射炉を建造することを中止した』という記録が残っており、これらのことから、萩反射炉はスケッチをもとに試作的に築造されたものであるという見方が有力視されています。

「地元の石工の技術によって安山岩による石積みができ、小畑焼の登り窯の技術を活かして上部の煉瓦積みができたと推測できることから、江戸時代の高度な匠の技術があったからこそ、その後の急速な産業化が進んだことを示しているとも言えます。こうした試行錯誤の積み重ねによって、ものづくり大国“日本”が確立されたことを考えると、試作炉ではあるものの、自力による近代化初期の資産として、かなり貴重なものといえるでしょう」と、阿武さん。

地元に伝わる技術が近代化に活かされていたことに、とても深い興味を覚えました。

貴重な発掘調査の様子も見学できる「恵美須ヶ鼻造船所跡」

萩(長州)藩は、幕府の要請や藩士の桂小五郎(のちの木戸孝允)の意見により、洋式軍艦の建造も試みます。

ここ「恵美須ヶ鼻(えびすがはな)造船所跡」は、萩(長州)藩が設けた造船所の遺跡。幕末には「丙辰丸(へいしんまる)」「庚申丸(こうしんまる)」という2隻の西洋式木造帆船が建造されたことで知られます。

当時、国内では、伊豆半島の戸田村で、ロシア人海軍将校のプチャーチンが地元の船大工を使って、西洋式木造帆船を建造しており、萩(長州)藩は戸田村に船大工棟梁を派遣。その後、建造に携わった技術者を招き、安政3(1856)年、恵美須ヶ鼻に造船所を建設します。

この年、ロシアの技術によって「丙辰丸」が進水。また、万延元(1860)年、2隻目となる「庚申丸」が進水しますが、このときは、幕府が軍艦の操縦と建造の技術習得のために設立した長崎海軍伝習所でオランダ人教官から教わった技術が用いられました。
▲発掘調査の様子(2015年度)

「ロシアとオランダという2つの異なる技術による造船を1つの造船所で行った例は他にはなく、また、幕末に建設された帆船の造船所で唯一遺構が確認できる造船所であることが評価され、構成資産となりました。2015年夏から本格的な発掘調査が始まっており、2017年度までの調査期間中(春~秋)は、発掘の様子を見学することができます。貴重な機会ですので、ぜひ見学にお越しください」と、阿武さんが教えてくださいました。

産業近代化の礎を築いた吉田松陰の私塾「松下村塾」へ

そもそも、萩(長州)藩は、なぜ製鉄や造船などの近代化に力を注いだのでしょうか。そこには、萩の地に「松下村塾」を開いた吉田松陰の存在が大きく関わっています。

「松下村塾といえば、維新の志士を育てたことで知られており、政治的なイメージを持たれる方も多いと思いますが、吉田松陰は海防の必要性と、工学教育の重要性を説きました。ペリー艦隊の船(黒船)に乗船を試みたのも“西洋の産業や技術を知りたい”という想いがあったからであり、幕末にヨーロッパに密航留学した伊藤博文をはじめとする5人の藩士『長州ファイブ』にも、吉田松陰の教えが影響を与えています。1850年代から1910年までの約60年間で日本が産業革命を成し遂げた背景には、松下村塾での吉田松陰による教えが、大きく影響しているのです」と、阿武さんは語ります。
▲松下村塾は、明治23(1890)年、吉田松陰を祀って建てられた松陰神社の敷地内にあります
木造瓦葺き平屋建ての小さな建物で、当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから、「松下村塾」と名付けられたそうで、現在、講義室だった8畳の部屋には、吉田松陰の石膏像と肖像画、当時使われていた机が置かれています。

塾生だった伊藤博文は、明治政府に工業や造船、鉄道などを推進する「工部(こうぶ)省」を設け、長州ファイブの一人である山尾庸三は東京大学工学部の前身となる「工部大学校」を設置するなど、萩(長州)藩の藩士たちが、後の日本の近代化・産業化の過程で重要な役割を担ったことから、その教えを説いた「松下村塾」が、世界文化遺産の構成資産に選ばれました。
境内にある「松陰神社宝物殿 至誠館」では、現在、世界文化遺産への登録を記念した特別展「吉田松陰と松下村塾 -明治の近代化・工業化にはたした役割-」が開催されています。この機会にぜひ行かれてみてください。

日本の在来技術が近代化を支えていたことを示す「大板山たたら製鉄遺跡」

萩(長州)藩が建造した「丙辰丸」の船釘やいかりなどに使用する鉄を供給した拠点の跡を残すのが、構成資産の一つである「大板山たたら製鉄遺跡」です。ほかの4つの構成資産は萩の市街地にありますが、ここ「大板山たたら製鉄遺跡」は、「松下村塾」がある松陰神社から車で40分ほど離れた場所にあります。
現地に到着すると、「大板山たたら製鉄遺跡」の管理とガイドを担う「福栄文化遺産活用保存会」の小野興太郎会長が笑顔で出迎えてくれました。

「“たたら”というのは、砂鉄を原料に木炭を燃焼させる1000年以上も前からある日本の製鉄技術です。高殿(たかどの)をはじめとする生産遺構が良好な状態で保存されており、日本における近世の製鉄業の展開を理解する上でも貴重な遺跡なんですよ」と、小野会長。
ここで生産された鉄は、「恵美須ヶ鼻造船所」での洋式軍艦製造にも使われており、萩(長州)藩の近代化は、日本の在来技術によって支えられていたことを示しています。

風情たっぷりの「萩城下町」を散策

最後に「萩城下町」を訪れました。

ここは、幕末に日本が産業化をめざした当時の地域社会における政治・行政・経済をあらわす資産で、「城跡」「旧上級武家地」「旧町人地」の3地区からなっています。
▲伝統的な防御のための石積み城壁と、指月山(しづきやま)を背景に本丸橋の掛かった内堀が残る「城跡」
▲「旧上級武家地」の一角にある口羽家(くちばけ)住宅
▲木戸孝允の旧宅や蘭方医・青木周弼(しゅうすけ)の旧宅などが並ぶ江戸屋横町がある「旧町人地」

萩(長州)藩の政治的、経済的、文化的、軍事的な拠点だった「萩城下町」。産業化を試みた幕末の地域社会が有していた江戸時代の伝統と身分制、社会経済構造を非常によく示していることから、構成資産の1つに選ばれています。
▲着物をレンタルして城下町を散策する女性の姿も

2016年1月、「萩・世界遺産ビジターセンター 学び舎」オープン!

世界文化遺産への登録が決定し、約半年経った2016年1月30日(土)に、「萩・世界遺産ビジターセンター 学び舎(まなびーや)」がオープンしました。国内8県11市にわたる23の構成資産の中でも、近代化の原点といわれる萩の5資産の位置づけや、吉田松陰がわが国の工業教育に果たした役割などを、映像やパネル、アニメーションなどを使ってわかりやすく楽しく学べる施設です。現地を訪れる前に立ち寄れば、世界遺産めぐりがより楽しくなることでしょう。

製鉄、造船、石炭産業などの重工業分野で西洋の技術を取り入れ、日本が「ものづくり大国」となる基礎を築いた歴史が学べる萩の旅を、楽しんでみませんか?
寺脇あゆ子

寺脇あゆ子

福岡を中心にグルメや旅などを中心に活動するフリーの編集者・ライター。美味しいものがあると聞けば、行かずにはいられないフットワークの軽さが自慢。主な仕事はグルメ情報誌「ソワニエ」、greenz.jpなど。

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