鹿が遊びに来る老舗の一室で、文人たちも愛した名物の極上鍋を

2015.11.19 更新

世界文化遺産・春日大社の大きな一の鳥居をくぐったすぐ右手。鹿がてくてく歩く自然豊かな奈良公園の中に、数寄屋風の建物がいくつか佇んでいます。風情たっぷりのロケーションに建つこちらが、料理旅館「江戸三(えどさん)」です。

江戸三は、明治40年(1907年)に料亭として開業し、戦後に料理旅館となりました。食事だけの利用もでき、結納などおめでたい席に使う人も多い由緒あるお店です。

客室はすべて離れで、全8室。
それぞれの客室には「太鼓」や「銅鑼(どら)」など楽器の名前が付けられています。由来は、各部屋にある鳴り物の名前から。

創業当時は電話がなく、各客室に備え付けられていた太鼓や銅鑼などの鳴り物を鳴らして客室係を呼んでいたそう。
今も鳴り物は備わっていますが、「たぶん、今鳴らされても車の音などで聞こえないかも(笑)」と、客室係の前田美景(まえだみかげ)さん。
車が通っていなかった時代は、今よりもずっと静かで、音が小さくても十分聞こえたそうですよ。
▲「魚鼓(ぎょく)」と名付けられた客室の入口には、今も「魚鼓」が健在です

常連だった志賀直哉ゆかりの若草鍋

江戸三には、創業当時から多くの文人墨客が集いました。
洋画家の小出楢重(こいでならしげ)は新婚生活を江戸三で1年にわたって過ごし、文芸評論家の小林秀雄は、志賀直哉に江戸三を紹介され、志賀の息子の家庭教師などをして生活費を得ながら、8ヶ月ほどこちらに逗留したそうです。
▲客室「魚鼓」
数々のエピソードに彩られた老舗ですが、なかでも最もゆかりが深いのは、文豪・志賀直哉です。

10年間奈良に住んでいた志賀直哉は、江戸三を気に入りよく通っていました。
当時としても高級料亭だった江戸三。
志賀直哉を慕い、連絡なしに志賀のいる江戸三を訪れた弟子たちのため、志賀が店主に頼み、残った食材で作った料理が「若草鍋」です。
▲鍋のフタには右から若草鍋の文字
▲鍋とともに供される付き出し、八寸、造り。造りは10,000円(税サ別)のコースに付きます
料亭が、鍋料理を出すこと自体珍しかった時代、当初は簡素な材料でしたが、昭和初期には、すでに現在の形で出していたといいます。
ホウレンソウをたっぷり敷いた上に、鯛やハモ、ハマグリなどの魚介、白菜や椎茸などの野菜、湯葉や生麩、さらに若鶏までを、山のようにこんもりと盛りつけ。その頂きを飾るのは、豪勢な伊勢エビ!
▲16種類の具材が盛られています。写真は3人前
志賀直哉はこの鍋を、新緑の若草山にたとえ「若草鍋」と名付けました。
若草山は、奈良公園の東端に位置する標高342mの芝生が美しい山。志賀の邸宅からも見えたこの山は、きっと志賀にとって思い出深い光景だったのでしょう。

それにしても、海のない奈良で魚介を仕入れるのは大変だったのでは?
ご主人の大和隆(やまとたかし)さんに伺うと「伊勢エビは朝早く電車に乗って伊勢まで仕入れにいっていたそうです」とのこと。

さらに、かまぼこは三重県津市、生麩は京都と、材料の仕入れだけでも相当な労力と手間がかかっていたそうです。
「昭和初期当時にしたら、すごく珍しいお鍋だったんです」と大和さん。
いえいえ、現代でもここまで豪華な鍋は、そうそうありませんよ。

創業当時の味わいを守るために

そして、もう一つ驚きなのが、炭火を使っていること。
カセットコンロやIH調理器が主流のこの時代に、江戸三では、今も炭火を用い、昔ながらの方法で若草鍋を提供しています。
▲炭火は1時間半~2時間ほど火力を保つそうです
「お客様に一番おいしく召し上がっていただけるように」と、鍋を食べ始める時間を逆算して炭を熾(おこ)し、特注の有田焼の陶器にセット。
客室係が楽しいおしゃべりを交えながら、手際良く鍋を作ってくれます。
▲あたたかいもてなしをしてくれる客室係の前田美景さん
グツグツ煮えてくると、一気に期待が高まります!
小鉢によそってもらい、まずはスープから。
カツオと昆布のダシに、伊勢エビやハマグリなどの魚介のエキスがぎゅーっと染み出し、口の中にうま味があふれてきます。
もう、スープだけでうっとり。

このおいしいスープでやさしく煮込まれた、野菜や魚介、鶏肉、湯葉…。
ひと口ひと口に、思わず頬が緩みます。
締めは、そんな極上のスープで作る雑炊を。
▲若草鍋。食事のみの利用の場合は8,000円と10,000円(いずれも税サ別)を用意。10~3月の期間限定(2名以上で要予約)
昭和天皇に献上された由緒ある若草鍋。
世界的に活躍するデザイナーの三宅一生氏も自身のおすすめとして、フランスのファッション誌『ELLE』に「天皇も賞味された日本版ブイヤベース」と紹介しています。

かの文豪たちも、この鍋を囲んで語り合っていたのかな。
なんて思いを馳せながら味わえるのも、物語がある老舗だからこそ。
長年愛されてきた理由をその目で、舌で確かめに、ぜひ奈良へ。
白崎友美

白崎友美

奈良の編集制作会社EditZ(エディッツ)の編集者。大阪、京都で雑誌や通販カタログなどの制作を行い、現在は居住する奈良県に軸足を置き、奈良の観光関連のガイドブックやホームページなどを制作。自社媒体の季刊誌『ならめがね』にて、「ユルい・まったり・懐かしい」奈良の魅力を発信している。

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