少年たちはその川で男になる。水清き郡上八幡を、まちなみ観光案内人と語り歩けば、あなたもきっと踊り出す

2015.10.29

日本名水百選の第一号として登録された「宗祇水」を始め、「水の町」として知られる郡上八幡。人々の暮らしは水の流れと共にあり、清流吉田川は夏、少年たちにとって大切な通過儀礼の場となる。ここで実際に暮らす人々が語る言葉を通じてこそ、見えてくる郡上八幡の真の姿。「まちなみ観光案内人」と巡る、郡上八幡の旅へ出かけよう。

おひとり様も利用可能
ガイドブックを捨てて、旅に出よう

ショーケースを眺めて回るように、我々旅人は観光地を通過する。迎える町もまた、どこか余所行きの顔をしている。その町の本当の姿というものは、そこに暮らすことでしか見い出せないのかもしれない。
しかし「郡上八幡まちなみ観光案内人」というサービスなら、それを知ることができる(1週間前までに申し込み。1回90分以内、案内人1名につき税込2,700円)。この町で育ち、恋をして、大人になり、やがて親として生きてきた郡上人が、自らの言葉で町を語り、案内してくれるのだ。

おすすめコースは、郡上八幡の見どころを中心に構成したA・Bの二種類あるが、あなた好みにアレンジも可能。
今回お願いしたのはAコース、待ち合わせ場所となる「郡上八幡博覧館」からスタートするコースだ。
こちらが本日の「郡上八幡まちなみ観光案内人」、塚原秋夫さん。インカム姿も様になる、御年72歳。郡上で暮らして50年、つまり他国出身なのだが、仕事で郡上をしばしば訪れるうち、土地の女性と恋に落ちた。それが現在の奥さまで、多くを語ってはもらえなかったが、故郷を捨てるほど熱烈な恋だったに違いない。
閑話休題。大正9(1920)年に建てられた税務署の外観はそのままに、内部をリノベーションした郡上八幡博覧館。こんな洒落た税務署なら、喜んで確定申告に行きたい、かもしれない。
内部は、郡上八幡の歴史・伝統・水環境などテーマ別に展示が行われているが、見逃せないのは「郡上おどり実演」。11時・13時・14時・15時の1日4回、郡上おどりの名手が浴衣姿で代表的な曲目を踊ってくれる。
国重要無形民俗文化財である「郡上おどり」は、見るのではなく「自分も踊る」のが真骨頂。だからこの実演でも当然、踊りの手ほどきを受けられる。
毎年8月13日から16日までの4日間行われる、「徹夜おどり」で有名な「郡上おどり」。踊りの多くは、いくつかの所作の繰り返しだから、見よう見まねでもそれなりに踊れるようにはなる。しかし基本の動きをマスターすれば、踊る姿は格段に違ってくる。いつか踊り手の一人として参加する日のため、「郡上おどり実演」をぜひ活用してほしい。
郡上八幡博覧館を出発し、最初に向かうのは古い町並みが残る「職人町、鍛冶屋町」。でも、その前にちょっと寄り道。実は塚原さんのご自宅は、職人町にあるのだ。
ここや、ここ、と気軽に案内して下さった軒先に、バケツがぶら下がっている。

住宅が密集する郡上八幡には、二度の大火に見舞われた苦い記憶がある。消火器という便利な器具が普及した今でも、やはり頼りになるのは使い慣れた消火用バケツ。防火槽は必要ない。目の前を流れる水路から、息もぴったりバケツリレー。幸い大きな火事は久しく発生していないが、備えは怠らないのが故郷を守る心意気だ。
職人町には、かつてほどではないものの、今も建築関係の職人が多く住む。二間(約3.6m)の狭い間口の家がずらり並ぶ様子は、京都の町屋に少し似ている。実際、内部の構造も通り庭に沿って部屋が三つ並ぶ町屋づくりだ。
土地が限られるから、間口の狭い住宅が密集したのかと思いきや、理由は節税対策。江戸時代、税は建坪ではなく「間口の幅」に対し課された。だから間口は狭く、奥へ奥へと部屋を連ねることで居住空間を確保したのだ。いつの時代も、税と庶民の格闘に終わりはない。
家並みの景観に独特の印象を与えているのが、ずらり連なるこの「袖壁(そでかべ)」。防火壁として考案されたもので、形が着物の袖に似ていることからこの名前がついた。
決まりというわけではないけれど、新しい家を建てる時もやっぱり袖壁はつけるねぇ、と話す塚原さん。見上げる我が家に袖壁がないと、何だか落ち着かない。これが郡上人のDNAに組み込まれた、家のカタチなのだろう。
次に向かったのは、「宗祇水(そうぎすい)」。日本名水百選は知っていたが、その第一号が郡上の「宗祇水」だとは、失礼ながら思いもしなかった。
なぜ「宗祇水」だったのか。塚原さんに尋ねてみると、宗祇という人物の歴史的評価の高さが大きいのではないか、という答だった。
宗祇(1421年~1502年)は室町時代の連歌師で、芭蕉・西行と並び称される旅の歌人。彼の生きた室町時代、連歌は都を中心に全国的な大流行を見せていた。いわば宗祇は連歌界のスーパースター。そんな有名人が、草深い郡上に三年も滞在したという。その理由を、塚原さんは静かに語りはじめた。
その時代、郡上を治めていたのは東(とう)氏。9代目の領主に、常縁(つねより)という人物があった。戦乱の世を生きる武将ながら歌道に秀でており、勅撰和歌集に収められた3万を超える歌をすべて記憶していたという。
特筆すべきは、古今和歌集の解釈を秘伝として口頭伝授する「古今伝授(こきんでんじゅ)」の資格を持つ、ごく限られた人物の一人であったこと。宗祇が郡上を訪れたのも、常縁から古今伝授を受けるためだった。

常縁の館に通うため、宗祇が庵を結んだ場所は吉田川と小駄良(こだら)川の合流点付近だと言われ、今は公園になっている。
古今伝授を始めて三年。ついにすべてを授かり、都に戻る宗祇を常縁が見送ったのが「宗祇水」の地。ここで二人は互いに歌を詠み交わし、歌人らしく別れを惜しんだ。
郡上の町は、至る所に水が湧く。それでもやっぱり、「宗祇水は一番やわらかい」そうだ。
山に降った雨が長い時間をかけて地中に浸透し、再び地上に現れたばかりの新鮮な湧水を、塚原さんと並んで一口。
うまいなあ、うまいやろ?、うまいです、うまいやろう
奇妙な応酬が続いたが、それ以外に表しようのない味も世の中にはあるのだ。
宗祇水が注ぎ込む小駄良川は、市の中央を流れる吉田川の支流。流れも吉田川より穏やかなため、夏は子供たちにとって格好の泳ぎ場になる。
最近は岐阜の子供も、スイミングスクールなんて洒落た場所に通うようだが、郡上っ子たちが泳ぎを覚えるのは今も川。岐阜県人たるもの、かくありたいものである。
その小駄良川沿いに木造三階建て・四階建ての住宅が並ぶ風景もまた、郡上八幡ならではの暮らし方。窓を開ければ涼しい川風が吹き込み、その心地よさと言ったらクーラーの比ではない。窓から釣り糸を垂れる、そんな贅沢も川辺の住人ならではの特権だ。
続いて吉田川に掛かる宮ヶ瀬橋へ。塚原さんは、この橋から望む郡上の姿が一番好きだという。小高い緑の山、白く輝く郡上八幡城、そして清き川の流れ。なるほど、郡上を構成する要素がすべて視界に収まる。
ここしばらく雨が降っていないため、今日の吉田川は抜群の透明度。宮ヶ瀬橋はかなり高さがあるが、それでも見下ろす川底の石を数えることができた。
夏の夜、吉田川両岸の建物は一斉に照明を落とす。すると現れるのは、川沿いに連なるカンテラの灯り。初めてのデートは川風に誘われ吉田川で夕涼み、そんな少年少女も多いはずだ。
宮ヶ瀬橋を渡って新町界隈に入る。ここは郡上八幡市街の目抜き通りで、人も車も往来が最も激しい。塚原さんは立ち止まり、ニヤリ笑って言った。
この町はね、信号が一つもないんだよ。
郡上八幡市街の中心部は、車両通行規制があるわけではない。交差点はむしろ多い方で、十字・T字と至る所で道は交差する。だが、どこを見回しても信号がない。
景観保護のためではなく、昔からなかった、だから今もそのままなだけ。
そりゃあ、ちょっとした接触事故くらいたまにあるけど。信号がないから事故が多い、ってことはないねえ。
飄々と語る塚原さんの言葉に、郡上人の譲り合う美しい交通マナーを見た気がした。
信号がないから交差点、とは言わない。新町と橋本町の四つ辻の真ん中は、「郡上おどり」のクライマックス「盂蘭盆会(徹夜おどり)」の会場となる場所だ。

「郡上おどり」の始まりは江戸時代。日本史上もっとも壮絶と言われる郡上一揆の後、荒廃した領民の融和を願う新藩主が、村ごとに行われていた盆踊りを城下の一か所に集めた。
さらに、「盆の四日間は身分の隔てなく無礼講で踊るべし」と宣言。士農工商の身分制度が厳格に定められていた江戸時代、それを覆した藩主の英断は後世に誇るべきものだろう。

喜んだ人々は、こんな楽しい盆踊りなら4日と言わずもっと長く続けたい、と日程を伸ばしつづけた。その結果、7月第二土曜から9月第一土曜のうち33夜、開催される日本一長い盆踊りとなった。
郡上市の人口は約4万人だが、「徹夜おどり」当日は会場周辺だけで5万人以上に膨れ上がる。つまり踊り手の半数以上は観光客、だが郡上人はそんなことを気にしない。殿様が身分の隔てを排したように、踊りの輪に加われば誰もがみな郡上人なのだ。
続いて向かったのは、「いがわの小径」。ここはかつて近所の主婦が洗濯に励んだ場所で、井戸端会議ならぬ川端会議で賑わったであろう洗い場が今も残っている。
幅1mにも満たない小川なのだが、アユ、イワナ、アマゴ、ハエなど土地の魚と、大きく育った鯉が群れ泳いでいる。
塚原さんが慣れた手つきで餌をまくと、大きく水しぶきを上げて魚が踊る。鯉はそのままパクつくが、地の魚は餌を尾で叩き沈めてから食べる。警戒心の強い野生の魚は、正体を確かめてからでないと食べないのだとか。
食べごろサイズに育ったイワナもずいぶんいるが、ここで魚を捕る悪童はいないそうだ。見上げた心映えである。
「いがわの小径」近くにあるのが、「郡上八幡旧庁舎記念館」。もとは郡上八幡町役場だった建物で、国の登録有形文化財。現在、内部は観光案内所や喫茶店・売店などが充実し、町歩きの半ばで一休みするにはちょうどいい。
しかしここは水の町。郡上八幡らしく一服できる場所も、建物の前にある。
それがこの「水舟」。二槽または三槽からなる水槽で、最初の水槽は飲用や野菜を洗うため、次の水槽では汚れた食器などを洗う。流した水に含まれる米粒は、魚のご飯。各家庭を起点とする水の浄化システム、それが「水舟」なのだ。
今も多くの家庭や町内で水舟は利用され、一部は観光客の喉を潤す水飲み場として開放されている。心づくしの茶碗や柄杓に、郡上人の優しさが見える。
橋の上から川に飛び込む、子供のたちの姿。夏の風物詩として、ニュースでもしばしば取り上げられるのがここ「新橋」だ。欄干から川面を見下ろすと、冷たいものを当てられたように心臓がすくむ。身を乗り出すだけでも、相当な度胸を要するだろう。

誤解しないでほしいのは、子供たちは単に面白いから飛び込んでいるのではない。彼らにとって新橋からの飛び込みは、少年を卒業し、大人の男の入口に立つ通過儀礼。その時を迎えるのは早い子で小学校高学年、たいていは中学に進んでからだ。
塚原さんにも息子がある。しかし、彼も新橋から飛び込んだはずだが、いつのことかは知らない、とずいぶん淡白だ。というのも新橋からの飛び込みは、親の許可を得て行うものではない。親もまた干渉しない。少年たちだけで守り継ぐ伝統なのだ。
少年たちは決して、いきなり高さ12mの新橋から飛び込みはしない。最初は川岸の低い岩から飛びこみ、徐々に高い岩へと進む。度胸がついてきたら、新橋より低い学校橋で練習を重ね、最終的に新橋に立つ。そして必ず年長の少年が監督し、危険と判断すればやめさせる。
若者は時として、無謀と勇気を履き違える。怖じ気づいた自分に打ちのめされても、そこからまた這い上がればいい。人生にとって大切な教訓を、郡上の少年たちは新橋の上で学んで大人になる。
最後にもう一か所、古い町並みへ。最初に巡った「職人町、鍛冶屋町」と異なり、ここ「柳町」は江戸時代まで武家屋敷が並ぶ界隈だった。その当時は立派な門構えの邸宅が並んでいたが、明治維新後に土地家屋が民間に払い下げられ、市井の人々が住むようになった。
家々の軒下を流れる用水は、当番制で毎日誰かが清掃する。これは、郡上八幡が観光地として脚光を浴びるずっと以前からの習慣。誰のためでもなく、自分たちのためにきれいな水を守る。だからこそ郡上八幡は、水清き町なのだ。
スタート地点である「郡上八幡博覧館」に戻り、塚原さんと巡った郡上八幡の旅も間もなく終わる。最後に、せっかくだからとお願いして「郡上おどり」の代表的な曲目「かわさき」を一緒に踊っていただいた。
最近の小学生はダンスが必修らしいが、岐阜県人として正しい教育を受けた私は、体育の授業で「かわさき」と「春駒」を習った。だから一応、この二曲は踊ることができる。
しかし、本場の踊り手はやはり動きのキレが違う。洋装にも関わらず、足さばきが艶っぽい。だが、旅の恥はかき捨てと言う。下手でも楽しく踊って別れる、これもまた郡上八幡流の旅なのである。
塚原さんと踊った「かわさき」は、こんな歌詞から始まる。
“郡上のなア、八幡出て行く時は、雨も降らぬに袖絞る”
雨も降らないのに、なぜ絞るほど袖が濡れるのか。その所以は、江戸時代に起こった百姓一揆にある。

藩主の過酷な年貢の取り立てに苦しんでいた郡上の人々。堪えかね一揆が勃発する都度、役人は交渉の席に就いたが、約束は口先ばかりで一向に藩政が改まる気配はない。残されたのは、江戸に上り幕府に直訴するという最終手段しかなかった。

たとえ藩主に非ありと認められたとしても、直訴はそれ自体が大罪。首謀者は死罪が必定だ。どうしても生きる望みなど見つからない、そんな旅に出る訴人たちを見送る場面を描いたのが、「かわさき」の歌詞。拭っても拭っても涙は溢れ、ついに袖は絞るほど濡れた。それでもまだ、涙は尽きることがなかったろう。
直訴の結果、失政を厳しく追及された藩主・金森家はお家断絶。江戸時代を通じ大規模な一揆は全国で度々発生したが、お家断絶という裁定が下されたのは郡上一揆のみ。ゆえに、最も壮絶な一揆であったと今も歴史に名を残している。

先にご紹介したとおり、一揆後の荒廃した人心融和を願い始まった郡上おどり。だからこそ、罪人である訴人を大っぴらに悼むことを憚ったのだろう。悲壮な別れの場面を「雨も降らぬに袖絞る」と、かくも美しく歌い上げた郡上人。その暮らしと心の真ん中を、今も川は流れ続ける。
船坂文子

船坂文子

農家・ライター。本籍地は生まれた時から飛騨。情報誌出版社にて15年間、人材・旅行領域の広告・編集記事作成に従事。若い頃から「田舎に帰って百姓になる」が口癖で、退職後は農業大学校での研修を経て就農。一畝の畑を耕し野菜を販売する傍ら、ライターとしても活動。「人」を通して物事を伝えることを心がけている。

※本記事の情報は取材時点のものであり、情報の正確性を保証するものではございません。最新の情報は直接取材先へお問い合わせください。
また、本記事に記載されている写真や本文の無断転載・無断使用を禁止いたします。
PAGE TOP