日本で一番、狭い国道のあった町・飛騨金山。筋骨を巡り歩けば、心が一番美しかった時代の日本人に出会える

2015.11.16

狭いものになると、幅1mにも満たない細い裏路地。それが、12年前まで国が管轄する国道だった「筋骨」。所によっては舗装もされていないその道を、子供たちは小銭を握ってコロッケを買いに走り、近所の主婦はつっかけ履きで豆腐を求めに通う。昭和レトロな建物が軒を連ねる金山町へ、心を温めにいきませんか。

筋骨ガイドと歩く、
昭和の味と心の旅

「赤道(あかみち)」という言葉をご存知だろうか。あまりに細いため、地図上で目立つよう、行政担当者が赤い線で示した路地を指す用語で、かつては日本各地に存在していた。区画整備が進む中、そうした細い道は不便だとして姿を消したが、ここ下呂市金山(かなやま)町、通称・飛騨金山では今も現役。「筋骨(きんこつ)」と呼び親しまれ、今も生活に欠かせない道として人々が通っている。
骨(太い道)に沿って網目のように張り巡らされた筋(裏路地)に例え、「筋骨」と名付けられたこの道。その誕生は、飛騨金山が宿場町として栄えた江戸時代にまでさかのぼる。
馬瀬川と飛騨川の合流点に位置する飛騨金山。ここはかつて、天領飛騨と尾張藩、苗木藩、郡上藩の境にあたり、飛騨街道を行きかう人荷でたいそう賑わったそうだ。
明治に入って馬瀬川に橋が掛かるまで、川を越える唯一の手段は渡し船。当然、雨が降り水位が上がれば、旅人は足止めを食う。そんな時が、金山宿の最も潤う時だった。

街道沿いおよそ600mに旅籠・飯屋・小間物屋など、旅人はもちろん、そこに暮らす人々の用を満たす店が密集していた金山宿。おもてなし精神旺盛だったのだろうか。表の道は旅人や荷駄を積んだ馬、住人は裏路地と使い分けた結果、迷路のように入り組んだ筋骨が発達することになった。
この筋骨、88本まで数えた人はいるが、正確な数は誰も知らないという。不慣れな旅人は、地図があっても迷う(実際、私も迷った)。だから、筋骨は通い慣れた住人と歩くのがいい。それが「筋骨ガイドつき散策コース(予約制、1名300円 。ただし 3名以下は一式1,000円)」。コースは45分~60分と90分~120分の二種類あるが、今回お願いしたのは後者。筋骨と人々の魅力に、たっぷり触れられるコースだ。

オレンジ色のユニフォームが目印の筋骨ガイド、本日ご案内いただくのは岡戸 孝明さん67歳。この町で生まれ育った筋骨ガイドも多い中、岡戸さんは52歳で飛騨金山に移り住んだIターン組だ。
渓流釣りが趣味で、山の仙人になるのが夢だったという岡戸さん。奥さまのご実家である飛騨金山に若い頃から通ううち、すっかり虜になってしまった。それだけに、飛騨金山を愛する心は地元っ子より強いかもしれない。
筋骨の入口には、目印も看板もない。いきなりもう、筋骨に突入している。
一応、筋骨には幅三尺(約90cm)以上という定義があり、1mをわずかに超えるこの筋骨は広い部類に入る。所によっては長さ1mに満たない筋骨もあるそうで、おそらくそれは日本一狭い上に短い国道でもあった。
そんな筋骨が国道でなくなったのは2003年、合併により金山町が下呂市に編入された時のこと。以来、筋骨もずいぶんアスファルトで舗装され、歩き良くなったと住民に喜ばれている。
歩き始めてほどなく、よく耕された畑の中に小さな祠が建っていた。「子守地蔵」を祀ったもので、夏になると傍らのサルスベリが、それは見事に真っ赤な花を咲かせるそうだ。
山の具合なのか、飛騨金山は大風大雨など災害が驚くほど少なく、冬も雪は少ない。しかしその分、冷え込む。このため幼い子供はよく風邪を引き、百日咳で亡くなることも多かった。
そんな飛騨金山の子供を救ってくれたのが、この子守地蔵さま。お参りすれば不思議なほど、百日咳が治った。
その恩寵を忘れない人々の、子守地蔵さまへの信仰は今も篤い。お地蔵様の前を通りかかったら、必ず深々と首を垂れる。この日も振り返ると、年配の女性が一人、熱心に手を合わせていた。

一夜かぎりの恋が咲く、
そんな町でもあった

筋骨の中でも人の往来が多く、銀座通りとも呼ばれるこの筋骨。取材中も幾人かの住人とすれ違ったが、皆一様にこやかな会釈を送ってくれる。人に会ったら挨拶する、忘れかけていた礼儀を思い出した。
その銀座通りが一般道と交差するあたり、地面の高さに洒落たガラス窓があった。今は郵便局となっているが、ここはかつて「金山劇場」が建っていた場所。ガラス窓は当時、舞台裏に使われていたものだ。
「金山劇場」は回り舞台も備えた立派な劇場で、当代一流の歌手や芸人がステージを飾ったそうだ。華やかな昭和史の1ページだが、その手前で一度、町は死にかけたことがあった。
橋がかかり、江戸時代のように川明け待ちの客を見込めなくなった金山宿。次第に逗留する旅人の数は減り、町も衰退の色が濃くなった。
それを救ったのが、国鉄(現JR)高山本線の開通。昭和3年、飛騨金山駅が建設された当初は、この町が高山本線の終着駅。飛騨高山へ向かう商用客だけでなく、下呂温泉に宿泊する旅客も呼び込もうと、飛騨金山の人々は懸命になる。「金山劇場」も、そうした動きの中で建設されたものだった。
スマートボール・パチンコ・ビリヤードといった、当時の粋な大人たちに人気の遊戯施設もずいぶん賑わったが、最大の呼び物となったのは駅の川向こうにつくられた「夢の国」というキャバレー。昼は子供たちが「大人になったら僕もあそこで遊びたい」と憧憬のまなざしを向け、ネオンが川面に照り映える夜は男たちが熱視線を注いだ。現在は跡地を残すのみだが、その思い出を語る時、老人たちの目は今もキラキラと輝く。

ルールではなく、
思いやりで生きる町

銀座通りを抜けると、一気に筋骨は狭くなる。子供でもすれ違いは困難、大人ならどちらか一方が譲るしかない。定義によれば90cm以上だが、実際にはそれより細い筋骨はいくらでもあるそうだ。
向こうから来た住人を通すため、民家の壁に身を寄せながら岡戸さんに尋ねてみた。右側通行とか、自転車は押して歩くとか、何か決まりはあるのか、と。しかし、ルールなど別にないという。続く言葉が、この町の根幹を示していた。
こんな狭い町では、相手を労わる心がなければ生きてはいけない。
胸を突かれた。ルールがなければ快適に暮らせない現代人は、なんと寂しい生き物なのだろう。
決して豊かではなかった飛騨金山の人々。家を建てるにも難渋し、考え出されたのがこの「4軒でひとつの屋根をシェアする家」だった。
なぜ、4軒なのか。構造上の制約ではなく、ここにも和を尊ぶ飛騨金山の人心が込められている。意見が対立した時、5軒が多数決で3対2に分かれたら、負けた2軒に遺恨が残る。4軒で1対3なら諦めもつく。女は3人でかしましく、家は5軒で諍う。なかなか含蓄のある教訓だ。
3mも掘れば豊富な清水が湧きだす「水の町」でもある飛騨金山。各家に水道設備がなかった時代は、12~13軒が組合をつくり水場を共有していた。
上下水道が整備された現代でもその水場は健在で、今もダイコンを洗う姿を見ることができる。
汲み上げポンプの物珍しさに騒いでいたら、ご近所の住人が現れた。ご迷惑だったかな、と思いきや、この水場の水源である井戸がその方のご自宅にあり、よければ見ていかないかと声をかけて下さったのだ。
丸い川原石を積み上げた井戸は深さ10m以上だが、ほの暗い水底に自分の姿が見えるほど澄み切っている。どんな日照りの夏でも、枯れたことは一度もないというこの井戸。でもそのことより、行きずりの旅人を気軽に自宅へ招き入れてくれる、その温かさが心に染みた。
続いて向かうのは、町の中にぽっかり島のように浮かぶ「鎮守山」だ。高さは山というより丘なのだが、道はなかなか傾斜が厳しい。その道程に、小さな石仏が何体か並んでいた。実はこの石仏にも、飛騨金山の歴史が秘められている。

時代が明治に移って間もなく、全国を席巻した廃仏毀釈運動。各地で寺や仏像が破壊され、その動きは山深い飛騨の地にも及ぼうとしていた。特に飛騨金山の隣、苗木藩は苛烈を極めたそうだ。
しかし、飛騨金山が属した尾張徳川家は、新政府に対する静かな反発なのか、廃仏毀釈も緩やか。それを知った苗木藩の心ある人々が、山を越え飛騨金山へと仏像を密かに持ち込んだ。こうして難を逃れた仏像を金山の人々は「逃げてきたお地蔵さん」と呼び、地元にあったお地蔵さんと分け隔てることなく、今日まで大切に祀っている。

ギフチョウの飛び交う春を、人々は待つ
今年も来年も、そのまた次の年も

激動の歴史を乗り越えてなお、穏やかな表情を見せるお地蔵さんを通り過ぎたあたりで、岡戸さんが足を止めた。指で示された場所を見ると、丸い葉をした植物がわずかに茂っている。
カンアオイという山野草で、雑草と見紛うが、西日の当る明るい場所でないと育たない、なかなか気難しい植物だ。しかし重要なのはその植生ではなく、これがギフチョウの幼虫が食べる唯一の植物だということ。
岐阜県で発見されたことからギフチョウと名付けられたこの蝶は、飛騨金山と深い縁がある。発見された場所が、金山町の祖師野(そしの)地区だったのだ。

日本の固有種ながら多くの都道府県で絶滅、あるいは絶滅危惧種に指定されているギフチョウ。飛騨金山でも成虫であるチョウが目撃されるのは4月、気温が17度を超えるようになった後の一時期だけだ。
春の気配に急いでサナギから羽化したギフチョウは、小さな卵をカンアオイの葉裏に生み付けると間もなく命を終える。5月に入るともう、姿を見ることもない。幼虫はカンアオイを食べて育つが、無事に越冬しチョウとなる日を迎えるのは、100匹のうち1匹だけ。その1匹が短い命を、次の世代へとつないでいく。

祖師野にはギフチョウの保存会があり、岡戸さんもその一員。カンアオイが群生する里山をつくり、いつかギフチョウが群れ舞う春を待つ。それもまた、飛騨金山の人々が抱く未来への願いなのだ。

彼は民衆のヒーローか、稀代の悪人か
答はあなたの心の中にある

鎮守山の頂上に到達し、息が切れたところで少し休憩。両面宿儺(りょうめんすくな)像を望む藤棚の木陰で、古代史の講義である。
両面宿儺とは、『日本書紀』仁徳天皇65年の条に登場する人物で、顔が二つ・手足はそれぞれ四本あったと記されている。もっともこれは八岐大蛇(やまたのおろち)同様、大和朝廷に従わない地方豪族を異形の怪物として描いたもの。実際は飛騨地方を治めていた、普通の人間だったと思われる。1日で40kmを駆け、1人で30人の敵を倒すほど屈強な人物だったため、手足8本という恐ろしげな姿に例えられたのだろう。

二つの顔を持つことについて、飛騨ではこう語り継がれている。両面宿儺の統治は独特で、凶作で民が苦しめば五穀豊穣を祈り、よく助けてくれた。その一方、豊作の年や富める者からは、徴税というより強奪に走る。英雄と盗賊、この二面性が二つの顔として描写された。
両面宿儺が飛騨金山に登場するのは、最後の戦となる朝廷からの討伐隊を迎え撃つ旅の途中でのこと。その年、凶作に見舞われていた飛騨地方。鎮守山に陣を構えた両面宿儺は、飢饉に苦しむ飛騨金山の人々のため五穀豊穣を祈願した。
その後、両面宿儺は生地である丹生川(高山市)付近で討ち取られたが、飛騨金山の人々にとって、両面宿儺は「民衆の味方」としての顔が語り継がれている。
だからだろうか、鎮守山に建つ両面宿儺像に恐ろしげな様子はない。抽象的なその姿に、鬼の顔を見るか仏の顔を見るか。それは拝む者の心次第なのだろう。
鎮守山の頂上にはもう一つ、観音堂が建っている。ここではかつて、8月16日からの1週間、子供たちが地区ごとに交代で泊まり込み、今でいうパジャマパーティーを楽しんだそうだ。朝になると次の子供たちが、扉の前で鈴を鳴らし合図したことから、鎮守山は「チンチン山」の別名を持つ。子供だけのお泊まり会は絶えて久しいが、「チンチン山」の愛称は今も残されている。
登山道とは別に、けもの道のような山道があるが、これも立派な筋骨。その行きつく先に、コンクリートの土台のようなものがあった。
石碑にしては碑文もなく、門柱にしては場所がおかしい。正体を尋ねると、第二次大戦中に建設された防空サイレンの基礎だという。
当時、攻撃目標に対する空襲を終えた爆撃機は、帰路の燃料を節約するため残った爆弾を所構わず落としていく、という情報が出回ったそうだ。これを恐れ飛騨金山の人々は防空サイレンを建設したのだが、幸い一度もこの丘から空襲警報が鳴り響くことはなかった。
秋晴れの空の下、無骨な肌をさらす土台もまた、歴史の生き証人なのだろう。

あんこは太りにくい、
そのことに感謝しよう

そろそろ小腹の空く頃合い、タイミングよく訪れるのは「三津屋製菓舗」。町の人からは「みつやのおまんじゅう」と親しまれる和菓子のお店だ。
一番人気はなんといっても、この「六方焼(5つで税込590円)」。あんこを小麦粉・卵・砂糖の皮で包み焼いた、昔ながらの和菓子だ。
こしあんに砂糖・水あめを加え、お店で丁寧に炊き上げられるあんこ。甘いものを食べたいという欲求をしっかり満たしてくれるが、甘過ぎるということはない。後に残らない甘さで、際限なく食べ続けてしまいそうになる。
続いて、栗きんとん(1つ税込180円)をいただく。飛騨金山の栗を丁寧に裏ごししたら砂糖を加え、弱火にかけ、練る。そして一つずつ、茶巾絞りにした栗きんとん。よく見る栗きんとんの倍ほどの大きさだが、価格は半値程度。しかもその味ときたら、栗好きにはたまらない。
和菓子なんだから、甘いのは当然だ。しかしこの甘さ、砂糖の甘さなのか栗の甘さなのか、その境界線が実にきわどい。つまり、非常に甘い栗をそのまま食べた時に期待する味が、このきんとんにはある。大人買いしなかったことが、つくづく悔やまれた。

ここにあるのは昭和63年の夏
シャボンの香り、子供たちの歓声

お腹を満たした次に訪れるのは、昭和の象徴・銭湯だ。各家庭に風呂がなかった時代、飛騨金山には2軒の銭湯があったが、最後まで営業を続けたのがこの「旭湯」。建物の中は昭和63年、営業を終えたその日のまま残されている。
カレンダーも当時のままなら、指名手配犯のポスターも当時のまま。日本赤軍の手配写真に、当時の世相がうかがわれる。
入浴料金は昭和59年に値上げして100円。洗髪料が設定されていたあたりに、昭和の時代が偲ばれる。
お勘定はレジスターでも計算機でもなく、やはりソロバン。カーテンは後に付けられたもので、営業当時は番台から女湯も男湯も丸見え。しかし、時代をさかのぼれば混浴が普通だった時代もある。見られることなど、誰も気にしなかったそうだ。
公開されているのは男湯のみ。タオルは浴槽に入れないようにと注意されても、子供たちは父親に「タオルのクラゲつくって~」とせがんだことだろう。
温泉ではなく、近所の人が日常の浴用に訪れる銭湯で長湯は禁物だ。このため浴槽は深く、立ち湯で使うのが作法だった。
当時のまま残るタイルは、昭和モダンの香りがする。異国情緒漂うデザインが多いのは、海外旅行など夢のまた夢だった人々の憧れを表しているのだろう。

子供たちは今日も来る
100円玉を握りしめ、息を切らせて駆けてくる

再び一般道に戻ると、赤い看板がひときわ目を引く店があった。創建当初から変わらない「名取天麩羅店」の佇まい。ショーケースひとつで、昭和の中ごろから今日まで営業を続けている。
ガラス越しに調理の様子を眺められる店内で、揚げものをつくり続けるのは二代目の森勇二郎さん。昼はコック帽のコロッケおじさんだが、夜になると川沿いのバーで蝶ネクタイのマスターへと早変わりする。鈴が転がるようなトークはさすがだ。
ショーケースに並ぶ揚げものも、昔から変わらない。アジフライ、串カツ、ちくわの肉入りフライ、ドーナツ、そしてコロッケ。アジフライ(税込130円)を除いて、すべて値段は税込100円。時の流れが止まっているかのような価格だ。
飛騨金山にもコンビニはあるのだが、子供たちが放課後、おやつを買いに行くのは今も名取天麩羅店。100円玉を握りしめ、ドーナツにしようかコロッケにしようか、それとも奮発してアジフライにしてみようか。目を輝かせながらショーケースを覗き込む光景は、今も昔も変わらない。
肉厚ぷりぷりのアジフライもお勧めなのだが、子供たちにはまだ早い味なのだろう。飛騨金山の定番おやつは、こちらのコロッケ。北海道産のジャガイモとタマネギに、挽肉を少し。塩コショウで味付けした、奇をてらわない素直なコロッケだ。
一口食べて、少し考え込む。コロッケだから当然、砂糖もみりんも使わない。なのになぜ、こんなに甘いのか。子供たちがおやつに好むのも、納得の味だ。
時間をかけて炒めることで引き出されたタマネギの甘み、ジャガイモの持つ自然な甘さ、それらを絶妙な塩コショウ加減によって際立たせる技。森さんはもしかしたら、天真爛漫な話しぶりからは想像もつかない、実は凄腕シェフなのかもしれない。
お腹をすかせた子供たちが駆けてくる筋骨の中で、ここは珍しく名前がついている。その名も「学生の筋骨通り」。というのもこの先には戦前まで女学校があり、そこの生徒たちが通学に使う筋骨だった。おさげ髪の女学生と詰襟の少年、甘酸っぱい初恋の通う道だったに違いない。

5枚で100円の油揚げが、
教えてくれたこと

洗濯物が風に揺れる筋骨を抜け、本日最後の目的地となる石田豆腐店へと向かう。
町一番の早起きと言えば、新聞屋さんか豆腐屋さん。石田豆腐店の朝は、夜も明けやらぬ4時から始まる。
水を使う豆腐づくり、「冬の朝はつらいのなんのってェ」と笑うご主人の石田富夫さんは今年で70歳。小作りな体で忙しく立ち回りながら、伺った時は飛龍頭(ひりょうず)づくりに余念がなかった。
石田豆腐店では毎日、4人の従業員が豆腐だけでも300丁をつくる。筋骨めぐりで立ち寄った遠方の住人が、この店の豆腐を買い求めるためだけに、飛騨金山を繰り返し訪れることも多いのだとか。ちょっと食べてってェ、と慣れた手つきで豆腐をすくい上げ、切り分ける包丁は独特の形状をしていた。
これは豆腐専用の包丁で、「にがり」の成分によって錆つくことを防ぐため、以前は真鍮製だったそうだ。今はステンレスだが、豆腐のあたる刃先が大きく抉れている。元からそんな形なのかと思いきや、豆腐を切り続けると、このように刃が摩耗してしまうそうだ。
「豆腐の角に頭をぶつけて死ね」という慣用句があるが、あれは案外、笑い話じゃないかもしれない。
お言葉に甘えて、お豆腐を一口いただく。名のある大豆を使っているわけではない。製法も、昔から変わらない町の豆腐屋さんの手仕事。それなのに、ごまかしのない大豆の甘さが口に広がる。

手の込んだ豆腐が持て囃される昨今。そうしたものが登場する以前、どの町にも1軒は豆腐屋さんがあって、毎日出来立ての豆腐を普通に買い求めることができた。その時代の日本人は、こういう美味しい豆腐を当たり前に食べていたのだろう。
時代が移ろい、大量生産・大量消費が叫ばれる中、豆腐づくりも工業化され、町の豆腐屋さんは姿を消した。「おいしい豆腐」は特別なものへと変わってしまったが、飛騨金山には今も石田豆腐店がある。なんと幸せな事だろう。
取材中も近所の奥さんがやってきて、豆腐を3丁買っていった。最近は食べきりサイズの小さな豆腐も増えてきたが、石田豆腐店でつくるのは今も1丁サイズのみ。これで値段は税込100円。味も価格も昔と変わらない。
取材中、ずっと気になっていたのが大量に積まれた油揚げ。タネを30~40分かけてじっくり焼き、ふっくら仕上がった油揚げは5枚で100円。頭が下がるのを通り越し、涙が出るような値段だ。
この油揚げ、石田さんの好きな食べ方は、ちょっと焦げ目がつくくらいまで焼き、醤油と大根おろしをかける。もう一つは、切った油揚げの中にカツオ節・ネギ・七味唐辛子を混ぜて詰め、フライパンで焼いた地元で「コンコン焼」と呼ばれる料理。白いご飯も酒も、どんどん進むに違いない。
そんな話をしながら石田さんが、油揚げをひとつ割って見せてくれた。こんなにギュッと中身のつまった油揚げを、私は見たことがない。むしろ、油揚げとは中身が空洞で、だから酢飯を詰めて稲荷寿司を作るのにちょうどいい、とばかり信じていた。
あんまりぺらぺらなのは、油揚げじゃないのォ、と石田さんは肩をすくめる。
原材料や原油価格が高騰すると、売値はそのまま量を減らして収益を維持する、そんな企業の取り組みも涙ぐましい。けれど、時代の風がどっちを向こうと、自分が信じる油揚げの姿を守り続ける昭和男の気骨こそ、今の日本に必要なものではないだろうか。
その油揚げ、さっそく自宅のオーブントースターで焼くこと3~4分。大根がなかったので、カボスと醤油をかけていただいてみた。
これはもう、脳天直撃一発ノックアウト。転げ回りたくなるほど、うまい。外はカリッ、肉厚な中身はしっとり。5枚など、あっという間に平らげてしまった。決して高級でも、手が込んでいるわけでもない、質素な焼いた油揚げ。けれど、心はこんなに幸せになれる。
昭和という時代は、「貧しくとも心は豊かだった」と表現されることが多い。それはこういうことなのだと、石田さんの油揚げに教えられた気がした。
金山の町には、映画館も、ファストフード店もない。けれど、利便性や効率を追求する中で、我々がどこかに置き忘れてしまった大切な何かが、この町にはある。
そのことに気づけないほど、心がくたびれ切ってしまう前に。どうかあなたも、飛騨金山を訪れてほしい。この町を訪れる人が増えるほど世の中は、今より少し良い場所になるはずだから。
船坂文子

船坂文子

農家・ライター。本籍地は生まれた時から飛騨。情報誌出版社にて15年間、人材・旅行領域の広告・編集記事作成に従事。若い頃から「田舎に帰って百姓になる」が口癖で、退職後は農業大学校での研修を経て就農。一畝の畑を耕し野菜を販売する傍ら、ライターとしても活動。「人」を通して物事を伝えることを心がけている。

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