合掌造りに宿泊して、白川郷の冬の暮らしを体験する。春を信じて待つ人の、強さと温かさに触れる

2015.12.08

あまりにも有名な世界遺産、白川郷(岐阜県)。ガイドブックで見たままの合掌集落に国内外の旅行者は感動し、熱心にカメラを向ける。しかし残念ながら、それだけで立ち去ることが多い。合掌造りの独特な姿形は確かに目を驚かせるが、その中で営まれてきた農村生活にこそ白川郷の魂は宿っている。合掌造りの民家に宿泊し、白川村の村民として一夜を過ごせば、きっとあなたもそのことに気付くはず。眺めて終わりの世界遺産旅行は、もう卒業しよう。

冬は雪に閉ざされ、誰も入れない・出られない
それでも人々は、この郷を見捨てなかった

名古屋方面から白川郷へ向かう主要ルート・東海北陸道は、山間部に建設されたため、もともとトンネルが多い。しかし白川郷ICの手前、清見ICを過ぎたあたりから道はほとんどトンネルで、空を望める場所はほとんどない。走っても走っても出口の見えない長いトンネルを抜け、止めにもう一つトンネルを通過し、車はようやく白川郷ICに到着した。

それにしても、ICの開設で白川郷へのアクセスもずいぶん楽になったものだ。世界遺産に登録されてからもしばらくは、国道156号線が唯一のルート。国道というより酷道といった区間も多く、ずいぶん肝を冷やした記憶がある。
だがその156号線も、除雪されるようになったのは昭和30年代に入ってからのこと。それまでは当たり前に冬季閉鎖、冬の白川郷は完全に陸の孤島となるのが常だった。
そう話すのは、「合掌民宿 大田屋」の主人・大田利展(としのぶ)さん、72歳。今は民宿となっているこの家で、生まれ育った生粋の白川村民だ。
合掌造りが誕生した江戸時代、庶民の住居は平屋が一般的だった。にもかかわらず、白川郷では大田家をはじめ三層が標準で、中には四層にも及ぶ豪壮な合掌造り住宅もある。
見上げるほどの高層建築が発展した理由の一つは、江戸時代から昭和30年代まで村の主要産業だった養蚕にある。

白川郷にいつから人が住み始めたのか。木曽義仲に敗れた平家の落人が流れ着いたという説もあるが、確かなことは何ひとつわかっていない。しかしいつの時代も、険しい山間の、わずかに開いた谷間で生きる人々にとって、農地の確保は死活問題。養蚕を営むようになった時も、農地をつぶして蚕を育てる場所に充てることはできず、人が暮らす住居の上に養蚕スペースを設けるしかなかった。
蚕を育てるのは6月から9月。春に繭を結ぶ蚕を「春子」、続いて「夏子」「秋子」と呼び大切に育てた。大田家でも祖母の代まで二階で養蚕を営んでおり、大田さんが子供のころは、蚕が桑の葉を食む音が夜も天井から聞こえたそうだ。

大田家は5代前からこの地に住み、現在の合掌造り住宅は築100年を優に超える。ニュースでも取り上げられる屋根の葺き替えは、大田さんが生まれてからは4回。3回はお父さんの代で、4回目は4年前、大田さんが執り行った。
今でも積雪が3mを越える白川郷。一夜にして1mの雪が積もることも珍しくない。合掌造りの屋根が45~60度という急勾配を持つのは、雪おろしの作業軽減のためでもあるのだが、それでもかつては一家総出の重労働だった。
カンジキを履いて屋根に上り雪を落とそうにも、自らの重みで圧縮された雪は氷のように硬く、スコップの刃も簡単には入らない。さらに落とした雪は春まで溶けることがなく、積もり積もってついには二階から出入りすることになる。

外界から隔絶され、人もモノも入ってこない冬は、便所紙にも事欠く有様だったそうだが、それでも子供たちには楽しみがあった。雪に落とし穴を掘るイタズラ、耳の先だけが黒く見つけやすい冬のウサギ狩り。秋に刈った茅を、山の斜面が雪に覆われるのを待って、一気に転げ落とす豪快な冬仕事。
確かに冬は大変だったけれど、生まれた時からそういう冬しか知らないから、そんなものだと思っていた、と大田さんは回想する。
雪で道が塞がり孤立化した集落を、自衛隊が救助に向かう。そんな映像が、ここ数年しばしばニュースで取り上げられる。しかし、半世紀ほど前の白川郷はそれが普通。ただし、誰も救助にはやってこない。
だから雪が降る前に、家族が一冬を生き延びられるだけの食糧・薪炭・水を確保することは非常事態でも何でもなく、ごく当たり前の年中行事だった。
各家庭で魚を塩漬けにし、漬物・味噌・醤油をつくる。農地の少ない白川郷では十分な量の米が収穫できないため、栃の実や雑穀を混ぜて食べたそうだ。現在でも大田屋さんの漬物は自家製で、カブは実だけでなく茎葉も余すところなく使う。
食料の貯蔵に関しては、雪も役に立つ。秋の終わりに収穫したハクサイやダイコンを、土に埋めれば雪の力で瑞々しさを保つことができた。ただし、埋めた場所に目印となる長い棒を立てておかないと、後で往生することになる。

様々な言語が飛び交う囲炉裏端の夜
誰にとってもここは、第二の故郷になる

生まれてから一度も離れることなく住み続けた我が家で、民宿を始めたのは昭和51年のこと。農協の職員で、地域の活動にも幅広く参加してきた大田さん。単に「合掌造りに泊まる」だけでなく、白川郷の暮らしや文化に触れられる宿にしようと、「白川郷まるごと体験宿」と銘打った。
客室は5部屋あり、1部屋に最大4人まで宿泊できる。世界遺産登録後は目立って海外からの旅行者が増え、なんとその割合は現在7割を超えるという。幸い、後継者である娘さんが語学堪能で、各国の旅行者も快適に白川郷の暮らしを体験しているそうだ。
家族で食卓を囲むことが減っている現在。旅先でも「個室で食事」が好まれる傾向にあるが、大田屋さんでは囲炉裏を囲んで宿泊者みなで食事をいただく。
冬の厳しい白川郷。薪炭の消費を極力抑えるためにも、炭をおこすのは囲炉裏に限られた。必然的に、暖を求めて家族は囲炉裏の周りに集まる。さらに、全員が一緒に食事を取れば煮炊きも一度で済む。
冬を乗り切るため生みだされた、白川郷の食卓の姿。だから時代の風潮がどうであれ、大田屋さんではみんな一緒の食事が今も続けられている。合掌屋根のもと共に過ごす間は、国が違っても言葉が変わっても、旅行者はみな家族なのだ。
食事のほかにも、囲炉裏端には楽しみがある。実は大田さん、民謡保存会の会長をしていた時期がある。世話好きだから引き受けただけで、上手だったからじゃない、としきりに謙遜なさるが、以前は夜になると宿泊客と一緒に囲炉裏を囲み、「白川輪島」「こだいじん」など白川郷に伝わる民謡を唄って聞かせたそうだ。さらに奥さまの房江さんは踊りの名手で、大田さんの唄に合わせて舞う優美な姿も見ることができた。
今はもう民謡はテープを流すだけ、と言うが、壁際に郷土楽器「こきりこ」を見つけた私に手ほどきをしつつ、唄って下さった「こきりこ節」は、とても素人芸とは思えない。あなたも一度耳にすれば、大田さんの唄う「ハァレのサンサもデデレコデン」が頭の中をしばらく回ることだろう。
囲炉裏を囲む夕食の御膳に並ぶのは、白川郷の土と風と水を感じさせる「ごっつぉ(飛騨言葉でごちそう)」。季節により異なるが、取材に伺った晩秋のメニューは、
・白川郷で育ったイワナの塩焼き
・堅豆腐の煮物(堅豆腐は、白川郷で古くから食されてきた伝統食材。文字通り堅いので煮崩れせず、味がしっかり染み込む)
・ころいも(皮付きの小さなジャガイモを丸ごと油で炒めて火を通し、醤油・砂糖の甘辛タレをからめた飛騨の伝統料理)
・飛騨牛の陶板焼き
・季節のちょく(酢の物・和え物)
・天ぷら(秋は大田さんの畑で採れたカボチャやサツマイモ、春はもちろん山菜)
・味噌汁
・自家製の漬物
・ご飯(大田さんが育てた減農薬栽培のコシヒカリ)

伺ったのは夕食の時間ではなかったのだが、奥さまが「お腹すいたでしょ?」と、栃餅に味噌をのせたものを出して下さった(上写真)。栃餅は今月に入ってから杵と臼でついたばかり、餅ならではの強い「もっちり感」がある。これは絶対に、機械つきでは再現できない食感だ。
味噌は朝食の朴葉味噌にも使われているもので、味噌の香りと甘みの加減がとにかく絶妙。白飯3杯は軽く行けそうだ。
もう1品、奥さまに食べさせていただいたのがこちら、ツクシの酢の物。春に採ったツクシを酢漬けにし保存しておいたもので、「季節のちょく」として供される山の恵みの一つだ。塩漬け、酢漬け、乾燥、燻しと、保存技法のバラエティーは実に幅広い。遠い春を雪の下で思い浮かべる食卓も、白川郷ならではの文化なのだ。
ご紹介したとおり、夕朝食に並ぶ米や野菜は、ほとんどが大田さんが自ら育てたもの。6反5畝(65a)の水田は今年もまずまずの作柄で、50俵ちかい米が穫れたそうだ。野菜は目の前の屋敷畑のほか、軽トラで3分ほどの場所にある畑でもつくっている。
伺ったのは、冬の足音が聞こえる時期。雪が降る前にすべて収穫を終えなければならないタイミングで、もうあんまり残っていないよと断りつつ、大田さんが畑へ案内して下さった。

野菜も米と同じく減農薬栽培で、畝間には雑草防止の蕎麦ガラがたっぷり播かれている。有機物を豊富に含んだ土はふかふかと柔らかく、立派なダイコンとハクサイが収穫を待っていた。朝晩の冷え込みによって甘みを増したダイコンなんて見るからにうまそうで、引き抜いたなりかぶりつきたくなる色艶だ。
今も冬の白川郷には、雪の下で野菜を保存する習慣が残っている。しかし大田家の場合、どういう具合なのか納屋に並べておくだけで、ダイコンもハクサイも新鮮なまま冬を越すそうだ。魔法の納屋には他にも、カボチャ、ジャガイモ、サツマイモなど冬を越すのに欠かせない野菜が保管されている。病害虫の痕跡など一つもない、きめ細かな肌をしたジャガイモに思わずうっとりしてしまう。

どんな厳しい冬でも、春を信じる人がいる
どんなつらい時でも、笑顔を忘れない人がいる

大田さんは民宿を始める時、ひとつ決めていたことがある。それが、「牛を飼い、牛と共にある農村生活を知ってもらう」ことだ。
古くから日本の農村では、労働力として牛を飼育する習慣があった。他にもニワトリ・ヤギ・馬など、家畜がいなければ農村の暮らしは成り立たないと言ってもいい。大田家でも昔から牛を飼い、冬になると牛も合掌造りの中で過ごしたそうだ(その場所は現在、浴室になっている)。
白川郷の暮らしとは、すなわち農村の生活であり、それをまるごと体験してもらう以上、牛がいなければ嘘になる。だから畑の一画に牛舎を建て、飛騨牛を飼うことにした。
宿泊者も、事前にお願いすれば牛のお世話を体験することができる(口蹄疫発生地域への渡航歴有無など条件あり。5日前までに2名以上で申込み。税込1,000~2,000円)。
昔は労働力として飼っていたが、今は子牛を売るためで、2代目となる写真の「もも」は女ざかりの7歳。日に6kgの牧草を食べるだけあって、なかなかのグラマーさんだ。
与えているのは、隣の畑で育つダイコンとハクサイの葉。牧草より、大田さんの作る野菜の方がやはり美味しいようで、実に豪快な食べっぷりだ。「お客さんが来ると野菜をたくさんもらえるから、ももは喜ぶ」と大田さんは笑うが、私より大田さんからもらう時の方が、ももは嬉しそうにしていた。
ももはこれまで娘ばかり5頭の子牛を生んだが、6頭目にして初めて息子を出産した。それがこちらの「京太」で、今年の夏に生まれたばかり。まだまだ甘えたい盛り、お母さんにスリスリスリスリ、始終ひっついている。
生後8~9ヶ月目となる春には、市場で売られる京太。それまではお母さんと、どんなに雪が降っても日に一度は世話に訪れる大田さんの、愛情をたっぷり受けながらここで育つ。きっとゆくゆくは、品評会で優勝するような立派な飛騨牛になることだろう。
今年の11月は例年になく温かい日が続いた白川郷も、間もなく初雪を迎える。ライトアップが行われる1月~2月の週末は多くの人で賑わうが、それ以外は静寂と雪があるだけの日々が続く。

雪のない正月というのは、大田さんの記憶にないそうだ。雪が少なければ「今年は助かったァ」と笑い、多ければ「正月らしくていいナァ」とやっぱり笑い合う。過酷な環境を恨めしく思うのではなく、その場所で与えられたものを精いっぱい活かすことで生かされる。そのことを最も実感できる白川郷の冬は、寒いけれど、この上もなく温かい。
船坂文子

船坂文子

農家・ライター。本籍地は生まれた時から飛騨。情報誌出版社にて15年間、人材・旅行領域の広告・編集記事作成に従事。若い頃から「田舎に帰って百姓になる」が口癖で、退職後は農業大学校での研修を経て就農。一畝の畑を耕し野菜を販売する傍ら、ライターとしても活動。「人」を通して物事を伝えることを心がけている。

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